京都三大火災の一つ、「禁門の変」の激戦地、蛤御門を紹介します。
京都御苑の西に建つ蛤御門は、他の社寺仏閣、庭、仏像などとは違う戦乱の遺構です。
この門には、当時の戦場の激しさを無数の鉄砲の痕により、現代に伝えています。市内中心部で勃発し、鉄砲が飛び交い、京都市内が戦場と化しました。市中はたちまち猛火に包まれ、民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となります。長州藩邸や堺町御門から出た火が、手の施しようのなく燃え広がるありさまを京都の人たちは、「どんどん焼け」と称しました。
被害は甚大で、北は一条通り、南は七条通り、東は寺町、西は東堀川、現在の中京区と下京区の殆どの地域に及びました。800か町、2万7000世帯、社寺は、東本願寺、本能寺、六角堂が焼失してしまいます。
池田屋事件の後の禁門の変ですが、京都から追放されていた長州藩は、朝廷へ名誉回復の嘆願に御所に押し入ろうとしますが、幕府側は、3200人の兵で侵入を防ぎ戦闘となります。長州藩は、久坂玄随や約400人の藩士を失い圧倒的な兵力の差で破れます。その後、朝敵とみなされ、第一次長州征伐も受け、窮地に陥ります。しかしこの後、幕府側で戦った薩長藩と同盟が結ばれ、尊王攘夷派は勢力拡大し、歴史は大政奉還へと向かいます。
この戦いで25歳の若さで自害をした指揮官の久坂玄随は、当初、挙兵に慎重の立場だったと言われています。京都市内に甚大な被害をもたらし、後に深い遺恨を残すことになるこの戦いは避けられなかったのかと、銃痕に思いを寄せました。
蛤御門は、江戸時代の城郭にみられる高麗門とよばれる形式の門です。江戸時代の地図を見ると、当時は、今の位置から東に30mの位置に南を向いて建っていました。堅いケヤキを用いて作られていますが、銃痕が深く刻まれていることに驚かされます。また、無数に刻まれた銃痕は人の背丈までしか確認でず、背筋が寒くなりました。






